first phrase 05


さっきまでちょとむかついてたくせに。
今度はドキドキと胸が高鳴ってる。


「信じたか?」
「えっ…あ…はい…?」
最後が疑問形なのは、やっぱりまだ受け入れきれていないから。
私がいつも使っている何の変哲もないコンパクトミラーだから、トリックなんてあるわけがない。


ということは、やはり。


「吸血鬼なんですね…」
「そう言っていただろう。…お前のほうは違ったようだが」
「えぇ、まぁ」

パニックにならずに普通に会話しているの自分がおかしい。
っていうか、トキメいてる場合じゃないでしょ。

彼も不思議に思ったのか、
「落ちついているな。怖がらないのか?」
と訊いてきた。

怖い、とかは思わない。
ただホントに、この人に恋してしまったみたいなだけで。


「まぁ、どちらにせよ忘れるから関係ないが」

何事もなさげにそう言って、彼は私の肩を押した。
「え?どういう意味ですか?」
「このドアをくぐれば、お前のここでの記憶はなくなるんだ」
「ちょっと待って下さい!」
そんなの聞き捨てならない。
私はあわててドアノブに伸びる彼の手を引きとめた。

「なんだ?」
「なんだ、じゃなくて!説明して下さい」
どういうことなんですかと食い下がる私をうっとうしそうに見やって、彼はため息をついた。
そんな顔されたからって、ハイソウデスカと記憶を消されてたまるもんか。

「これまでの生活で、この屋敷の存在に気づいたか?」
「いいえ?」
「人間たちに気付かれて騒がれると迷惑だからな」
「わかりづらくなってるってことですか?」
「そうだ。だが今回は何かこちらに手違いがあったんだろう。後で調べる」

だから私はこの屋敷に気付くことができたのか。
やっぱり、ラッキーだった。

「お前がただの人間だとしても、簡単にここのことを口にされたら困る。
 ここでの記憶を失くしたほうが、お前の生活にも何の変化も生じなくていいだろう?」

それが、さも当然のことだとでも言うように。
「これまでの記憶が消えるわけではないから心配するな」
私の手をどけて彼はドアノブを回した。

「忘れたくなんかない!」

必死で止めた私を、彼がつ、と睨む。
ひどく冷たい瞳。
その冷たさは、怖いというより悲しかった。

思わず動きを止めた私の背を、彼が押した。


「吸血鬼に、人間が何を望むというんだ」


扉が閉まる直前に聞こえたセリフに、なぜだかむしょうに泣きたくなった。






外は雨。
すぐ傍に、白い花の植え込み。



振り返った先に、屋敷はなくて。
手の中の白いタオルだけが、さっきまでのことが現実だったと告げている。


扉を超えたら記憶が消えると言ったのではなかったか。


記憶はとても鮮明なのに、存在していたはずのものがない。
簡単に触れられた屋敷の壁とか装飾とか。
そういったものが、ない。

いっそ記憶がないなら、悲しくもないのに。



どうしようもなく切なくなって、その日私は雨の中を泣きながら駅まで走った。






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