第二章 三



そもそも侍女たちに教育係を命じたのは愛姫だった。
そんなことを今さらながらに思い出す。
にっこりと微笑む彼女を前に、朋夏はがっくりとうなだれた。
「そうはおっしゃいますが、トモ様?こちらでお過ごしになるのですから」
「だからって、あの2人厳しいんだってー」
「そんなこともないと思いますわよ?」
しとやかに座っているが、彼女は頑として自分の立場を譲らないようだ。
(けっこう逞しいね…めごちゃん)
どうにか聿とさくらのスパルタ特訓を中止させようと直談判に来た朋夏だったが、この件に関しては旗色が悪い。



「じゃあね、めごちゃん。また来るね」
そう言って朋夏は愛姫の居室を後にした。
毎日遊びに来る、という約束を果たすためにこうして訪れてはいろいろな話をしていくのが日課となっていた。
城内に話し相手が少ないのか、愛姫は朋夏の訪れを楽しみに待ってくれているらしい。
そういわれると朋夏としてもうれしくて、なんだかんだと時間を見つけては顔を出しているのだ。
もちろん、自室にいるとお小言の嵐だからというのも大きな理由のひとつである。
侍女たちが襖を閉め終わるのを見届けて、自分も廊下へ進む。

こう毎日着ていればさすがに和服の扱いも慣れてはきたが、やはり歩きにくいことに変わりはない。
愛姫のように内掛をまとっていない分、いくらかましではあるのだが。
その上、部屋に帰れば侍女コンビのきつい愛のムチが待っていることを思うと、朋夏の足取りは重くなるばかりだった。
とぼとぼと進んでいると、廊下の角から女の頭が見えた。
最初は2人かと思ったが、見ればぞろぞろと数人が続く。
一団の中心に1人目に見えてあでやかな着物をまとった者がいる。
その人物から発せられる独特の威圧感に、朋夏はすっと脇へ退けた。
膝をついて頭をたれたのは、ほとんど本能的といってもいい速さだった。

「そなたは?」
早く過ぎ去ってくれと念じていた朋夏をよそに、彼女は目の前で足を止めた。
伏せた視界の隅にうつる打掛の豪勢なこと。
橙色の地に紺糸で菊花の刺繍が施され、いたるところに金糸や金箔があしらわれている。
「お初にお目にかかります。政宗様のところでお世話になっております、朋夏と申す者でございます」
顔を伏せたままで応えたのは、侍女たちの教育の賜物というよりは、うかつに顔を上げるのははばかられたからだ。
この屋敷の中で、これほど人を引き連れて歩くような人物考えてみれば、おのずと見当はつく。
なれなれしく声をかけられるような相手ではない。
「ほう。ではそなたが噂の、梵天の客人か」
「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません」
「ふん、かまわぬ。それにしてもそなたも酔狂なことよ」
言われた意味がわからずにいると、取り巻きの侍女たちがくすくすと笑った。

(…なんのことだろ?)
うかつな事を言っては、と口を閉ざす朋夏をどう受け止めたのか、彼女はそれ以上何も言わずに廊下を進んでいった。

後姿を見送りながら、ふぅと息をつく。
きらきらとまばゆい衣装は、彼女の年齢を考えるとかなり派手なものだった。
しかし目元の皺などを差し引いても、その姿は少しも見劣りしない。
鋭い目の動きと、彼女自身の美しさが着物と合わさり、さらに強烈な印象を与えていた。

「あれが…義姫様…」
「よくおわかりになりましたね」
「え…う、うわぁっ!」
気を抜いていたところに急に声をかけられて、思わず大声が出る。
「人を見るなり、失敬な」
「か、景綱さん」
呆れたような冷たい眼差しを向けられて身がすくむ。
どうにも初対面時の印象と違って戸惑ってしまう。

「すいません…」
「どうしておわかりになったのですか?」
「え?あぁ、だって…ここで政宗を幼名で呼び捨てるなんて、お母様くらいだと思って」
「そうか…記憶がないとはいえ、あなたは元よりこの時代の知識がおありでしたね」
「えぇ、まぁ」
「面倒なことです」
(…え…?)

この男はこんな物言いをするのだったか。
景綱の素っ気ない言葉に朋夏は面食らった。
出会った日、戸惑う朋夏の手を引いて城へと導いてくれたのは目の前の男のはずなのに。


「どうあれ、あのお方と関わり合いになる時は、十分にご注意ください。
 政宗様のお側におられるおつもりであれば、なおさら」
「あぁ、はい。…やっぱりそう、なんですね」

18歳の息子がいるとはとても思えない美しさと威厳を持った先程の女。
彼女の名は義姫という。
当主輝宗の正室であり、政宗の実母でもある。
しかしこの母子の不仲は後世にも伝わっている。疱瘡や実家の差し金など諸説あるが、どうやらこの戦国でも母子関係はかんばしくないらしい。

「それにしても義姫様は、私の顔を見ようともしなかったなぁ」
非礼を働かないように伏せたままだった面は、1度も上がることはなかった。
あれではきっと、朋夏の後頭部しか見えていないだろう。
「興味がないのでしょう」
「…は?」
ずば、と言い捨てると、景綱はその場を立ち去ろうとした。
「あ、あの!景綱さん」
「……何か?」
「え?あ、いえ…」
「わたしはそろそろ失礼します。朋夏様とて、教育係が待機しているのでしょう」
思わず呼び止めてしまった朋夏を一瞥し、きびすを返す。

(私…なんか、した?)

景綱に嫌われるような事をしただろうか。
背中に定規でも仕込んであるのかと思う程、まっすぐに伸びた背中を見ながら首をかしげる。
嫌われる以前に、そもそも彼との関わりはそう多くない。
政宗や成実が頻繁に朋夏の居室を訪れたりするのに対して、彼が直接顔を見せるようなことはなかった。
屋敷の中でそうそう出会うこともないし、今日のように稀に鉢合えば挨拶を交わす程度である。
最初のイメージが温厚・柔和といったものであっただけに、違和感が拭えない。

それに。

「…戻りたくないなぁ」
部屋で待つ2人を思うと、朋夏の足は一層重くなるのだった。







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