第一章 二


大きく地面が傾いだ。

「え」

地震だろうか。
一瞬、浮かんだ考えは、すぐに朋夏の中で大きな不安へと姿を変えた。
昔テレビでみた震災の光景が頭に浮かぶ。

自分は今、櫓の前にいるのだ。
簡単に崩れるとも思えないが、万が一…そう考えただけでも血の気が引くのがわかった。
落ちてくる瓦礫を避けられるものはなく、今の自分にとっさにできることなど何もない。
(あぁ、もうダメか)
そう思ったとたん、奇妙に心は凪いで、朋夏は静かに覚悟を決めた。

駄目なら駄目で仕方がない。






落下型のジェットコースターに乗っているような感覚。

朋夏の周囲の景色が下から上へと恐ろしい速さで変化していく。
ちょうど、頂上から一気に駆け下りるコースターからの風景に似ている。

ただ、不思議なことに朋夏の体に落下による強大な重力はかからなかった。
どこまでも深く落ちていく感覚の中、朋夏の足はしっかりと地についている。
それがどういうことなのか、自分が今どんな体験をしているのか。
朋夏にはさっぱり見当がつかない。



短くも、長くも感じた。
ほんの一瞬のことであったか、それとも何時間もかかったのか。



気付けば朋夏は、一人だった。

周りがいやに明るい。
しかもずいぶんと広々としている。
それが自分の周りにあった建物がなくなったせいだと、朋夏はしばらく理解できなかった。
見れば、建物ばかりでなく、人も車も、朋夏の知る仙台の町並みそのものがなくなっている。
自分はたった一人、見たこともない場所につっ立っていたのだ。


ここはどこだろうか。
今いる場所が、自分が先程までいたところと違うということは漠然とだが理解できる。

おだやかな光景であった。

朋夏が立っている土手は草が茂り、木々の緑は鮮やかで、その数は公園の比ではない。
(瑞鳳殿の周りとかってこういう木、多いよね)
ふと考えてから、思わず朋夏は苦笑いをした。
こんな状況でも真っ先に政宗を連想できるなんて。
自分は相当、彼に心酔してしまっているらしい。
そんなことはとうにわかっているけれど。

『田舎のおじいちゃんち』というのは、こういう風景を言うのだろう。
のどかで、優しくて、そしてひどく懐かしい。
もっとも、両祖父母がそれぞれ、東京と埼玉の人間であった朋夏にとって、それはあくまでイメージでしかないのだが。
その祖父母たちも皆、すでにこの世の人ではない。


やわらかな日差し。
少しだけ冷たい風。
ここも秋なのかもしれない。


「…帰れないのかなぁ」
なんとなく口をついた言葉に、朋夏自身が驚いた。

自分はもう、あの生活に戻れないのだろうか。
何の前触れもなくこんな目にあって、戸惑ってはいる。
しかし、なぜだろう。
焦りも不安も、ましてや悲しみもない。
友人たちに別れを言えなかった。
大学で学びたかったことも、ほとんど手つかずだ。
そのことは、確かにつらい。

(戻りたい…の、かな)
もう一度、今度は心の中でつぶやき、目を閉じる。

一瞬、恋人の健二の姿が浮かんで、そしてそれはすぐに、消えた。





朋夏にとって、本当の意味での『帰る家』はなかった。
正確に言うならば、なくなった、のだ。9ヶ月程前に。




それは突然の事故だった。
冷たい雨の降る日、1台のトラックが高速で玉突き事故を起こした。
路面がスリップしやすくなっていたこともあって、巻き込まれた車は多く、それに伴い死者の数も多かった。

その中に、朋夏の家族も含まれていた。


マナーには厳しいくせに、変なところで娘に甘かった父。
家事が嫌いで、仕事に全力投球だった優しい母。
ナマイキでケンカばかりだったのに、妙に仲の良かった3つ下の弟。


朋夏は3人を一度に失ったのだ。
折しも、受験前最後の模試を受けていた朋夏は、叔父からの電話でそのことを知った。
浮かんだのは、前の晩の母の言葉。
「明日、3人でトモちゃんの合格祈願に行ってくるわね」
どうせその後3人で外食なんでしょ―、と照れ隠しに意地悪を言った自分。

それが、最後になってしまった。




帰る場所などない。
ならば、なるようになってしまえばいいと思う。



背後に人の気配を感じたのはその時だった。
「そなた!何者か!」
突如あびせられた大音声に驚いて朋夏が振り返ると、まるで時代劇から抜け出して来たかのような少年が立っていた。
着物に袴、長い髪をひとつに結い上げている。

「妙な恰好をしおって!どこの者か!」
精いっぱい大きな声を出す少年にふざけている様子はない。


(あれ、私、この展開見たことあるよ)
よくあるトリップもののお決まりのセリフではないか。
まさか、と自分の考えを笑い飛ばそうとした朋夏は、今度は少年の声に息をのんだ。

「殿!片倉様!お二方ともおられませぬか!?」

カタクラ…?

殿、といういかにもな呼称にも驚いたが、朋夏はその名前に反応した。
政宗の家臣の中に、同じ苗字の者がいる。
朋夏の中で好きな武将ベスト3に入る、片倉小十郎景綱である。

(いやいや、まさか)

「何を騒いでおるか」
「片倉様!」
さ、とその場に現れたのは、柔和な顔つきのすらりとした青年だった。
彼の姿もまた、時代劇風だ。
「そこに怪しい女が…」
「女?………あ、い…いや……まさ‥か」

カタクラサマ、と呼ばれた優男は少年の視線の先を追い、朋夏を見つけるなりはたから見ても明らかな程、狼狽した。
幽霊でも見るかのような驚きに見張られたその目に込められているのは、恐れではなく哀しみか。

「まさ…か……美、阿…?」

みあ、そう紡がれた音は悲しいくらいに震えている。
誰かと勘違いしているのだろうか。自分は木名瀬朋夏であって、間違っても“美阿”ではない。
呆然とつぶやく青年に声をかけようとした朋夏の前に、新たな人影が現れた。

「どうした小十郎」
「…政宗様」
2人の会話に、朋夏はどきりとした。
魂が抜ける、というのはこんな気分なのかもしれない。
比喩でもなんでもなく、体が動かない。


コジューロー?
マサムネ?


まさか。
まさかまさかまさか、まさか!
本当に、自分は、彼らの前にいるのか?


「……おぉ!お前!」
信じられない思いで言葉もなく立ちつくす朋夏に向かって叫ぶと、マサムネサマは傍まで歩み寄って来た。

ニヤリ、と質の悪い笑みを浮かべ、
「遅かったではないか」
バシリと豪快に朋夏の肩を叩き、そのうろたえる姿を見て嬉しそうに言った。


「待ちくたびれたぞ!トモ!」





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